最近、何かにつけて「かわいそう」「卑怯だ」「良くない」といった子供レベルの善悪概念で解決しようとする風潮は、戦後日本において特に根強いものだと思うのです。
この「かわいそう」っていうのは、結構卑劣な誘導法だと思うのですよ。ある事柄に対して、唐突に「かわいそうだから」と言ってしまえば、あたかもそれが正しいように思えてしまう。もう一方のものも考えようによっては「かわいそう」であるのを無視させる誘導法ですね。
あらゆる物事には善悪の両側面がある。「かわいそう」という誘導は、それを一時的に忘れさせるきわめてあざとい方法ですね。
自分が子供のころにこういう考えを持つに至った原因を作ったアンパンマンをあえて例にとってわかりやすく言いましょうか。
子供の自分は、通常は「良くない」バイキンマンの悪行の被害を受けるカバ夫やら何やらを「かわいそうだ」と思っていたわけです。
なぜ「かわいそう」かを問わないのが重要なとこで、ああいうお話を描く上では、一方が完全な悪概念として描かれるのが当然のことだという暗黙の了解を無意識ながらに理解していたのですね。だから、バイキンマンが悪であるということになんら疑問を持たないで見ていたのです。
ところで、たまにバイキンマンがいいやつとして描かれるお話があるのです。そういう時は、バイキンマンの対立概念が悪である、バイキンマンが「かわいそう」、バイキンマンの相手が無条件に「良くない」ってことになるわけです。
そこで普通は気づきますね。バイキンマンに虐げられるやつらってのは、ただ無条件に「かわいそう」で片付けられていいのか?と。そこには何か然るべき理由があるべきではないか?バイキンマンがそのような行動に駆られる原因を探るほうが大事なのではないか?と。
まあ、上の例を見ても、「かわいそう」なんていう思考法はあくまでも子供のような短絡的思考です。非常に単純。愚劣さすら感じられますね。
しかし、この「かわいそう」って思考法、現代日本のいたるところに現れていると感じるのは決して僕だけではないと信じたいです。
僕がほかの国に比べて日本がこの問題により深刻に犯されている国だと考えるのは、この「かわいそう」という幼稚な思考法が国政のレベルにまで顕著に現れているからです。
日本が国際法スレスレのきわどい方法で外交問題を処理しようとすると、すぐに国内から「良くない」という声が上がってきてしまう。日本の深刻な点は、そのような声が政策発動の有無にまで影響を与えるから。
そういう意味で言ったら、マスコミだってそうですね。戦争の問題だって、無条件に「人が死ぬのは(無条件に)かわいそう」で片付けて否定します。政治上の必要性とかそういう問題とかお構いなしでね。
さらに言うと、マスコミの連中も全部が全部偽善者だとは思えないのです。
ただ、ちょっと男らしい事言うと、偽善者がそれ来たとばかりに「かわいそう」「良くない」というもんだから、やむを得ず偽善な報道をせざるを得ないってのはあると思いますよ。
こういった偽善は、一応オフィシャルに正しい事として認知されているもんだから、声高に叫んでも糾弾される心配がない、だから際限無い。某女性のための政党の議員みたいにあられもない姿で罵っても誰も文句言わない。文句言うと、権利の侵害だとか言われそうで。
ふう、やつらはまことにしたたかだぜ。
一応言っとくと、自分も別に「よろしい、ならば戦争だ」とか簡単には言いたくないですよ。人の命は大事です、これ基本。ただ、無条件に地球よりも重いとは言いたくない。そこに一定の酌量はあってしかるべきだと思うのです。少なくとも、文学的には。
重要なのは、彼らが何の葛藤もなく紋切りで「良くない」の一辺倒だということです。少しはほかの可能性も考えろよ、って話で。
そういえば、たびたび挙げている「おたくの精神史」での大塚英治の論の立て方で、いつ思い出しても憤りを覚える文章がありますね。
それは、昔一人のアイドルが自殺した事件のことを述べているのだけど、“社会学的見地”からいろいろ論を立てた後、最後蛇足のようにそのアイドルのことを「かわいそう」みたいな文脈で同情して終わるんですよ(後で正確に引用したいなあ)。これには自分最初唖然としましたね。
あのね、学者(彼は学者でもなんでもないけど、彼は一応学者面して書いてますので)が「かわいそう」とか言ってんじゃないよ。だからなんだって話で。
学者は論文でそういうことを言っては絶対にいけない。それって基本だろ。
若かりし僕は、ここに進歩的文化人とやらの下劣を見ましたね。ええ。
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