四年生の追いコンに出かけてきました。まあ追いコンとは言っても、自分にとっては教授と話をする機会という意味合いの方が強いかな。第一今日来た人の半分くらいは院生だし。
そういうわけで今日もS根教授と話してきました。
やっぱり教授はすげえなあ。学ぶべきことの多い人や。今日は宿題を出されました。この一週間はずっと集中して読書していなさい、と。まあ本読んで無さ過ぎでした、と。まあ逆に言えば期待されてるんだろうなあと、プラス思考でいこうと思います。
とりあえず、卒論ではどんな形であれ、莫言について何かしらの結論を出したいと思います。その結果導き出されるものが彼の肯定であれ否定であれ、それをしないことにはその先の研究が進みません。それ程、莫言は中国文学、否、世界の中でもいろんな意味でただならぬ存在だと思うのです。
世界に向けた文学、というテーマ。文学において、国境線というのはすでに崩れつつあるのです。それはある国の作家の作品が世界中で読まれて賞賛されている現実を見ても分かるとおり。そういう作家の一人として、日本では分かりやすい例として村上春樹とかいますね。まあ彼が真に優れた小説家かってのは別問題として。他にも過去に安部公房の『砂の女』その他の作品とかあらゆる言語に訳されてますね。
さて、その原典の翻訳と言う問題なのですが、書かれた言語が違う言語である以上、100パーセント正しい翻訳ってのは存在しない。例えば言語特有の言い回しの問題で英語を直訳したらおかしな日本語になるとか、大学入試辺りを経験した人なら分かると思います。
翻訳者自身もそこを割り切って、面白い表現であればいいじゃないかと言う感じで文章を組み立てる人もいる。当たり前ですが、もちろん原作者の同意を得て。
村上春樹がその代表的な例だというのですが、彼が言うに、大体の作家は大筋が合っていて面白ければあまり細かいことは気にしないらしいです。それは春樹本人にも言えることだとの事。
さて、そう考えると世界中で訳本が出回るって事は、言語という国境線が取っ払われて作品自体の精神が世界中を飛び回っているということになるわけです。そしてその作品が世界中で認められるということは、それがその国の国境線を超えた人間普遍の精神に通ずるものを持つということであるということです。
さて、今現在世界における文学の問題はと言うと、文学とは何か、小説とは何かという問題となるわけです。
教授は、それは人間の魂の奥底を描くものであるということになります。そして小説とは、それを最も真実味をもって描くことができる手段であるとおっしゃる。それ以外に小説の存在意義はないとまで言いました。
これについては、自分は一部賛成です。これが全面肯定になるかはまだ分かりません。もしかしたらなるかもしれません。人間の精神に衝撃を与える存在とは、それが人間存在自体を問わせるものであり、それは人間の精神の奥底の探索作業によって悟ったものとまったく同義である可能性は大いにあるからです。
しかし、自分はそれでもその例外というものを夢想していたい。たとえそれが存在しないものだとしても。叙述しない。叙述する必要が無い。叙述できない。その事実がひとつの芸術となりうるのではないか、ということを。
まあ、何はともあれまずは莫言を読まなきゃ話にならないんですがね。まだ全部読んでないのよ、多いし、長いから。
それで、一週間読書に集中しなさいと言われた次第であります。
とりあえず、『赤いコーリャン』全巻ね(岩波現代新書で出ているのはその一部だけ。彼はその続きをさらに書いているのです。めんどくせ)。
まあそういうことを話していたわけです。実り多い宴会でした。久しぶりの大事な練習をわざわざ休んでまでいった甲斐があったってもんよ。
特にこの一年で、世界に向けた文学と言う視点を得ることができたのは良かった。中国文学はもはや世界に向けて描かれた文学として見なければならない。それは日本文学にも言える。もしかしたら、○○文学専攻とかいう言葉自体が不適当なのかもしれないですね。
まあ、あらゆるものに土着性という問題は否定できないものですけど。例えば茨城で育った人は、やっぱり人嫌いの補正がかかるのだと思いますよ。
あ、それとパンパンが四月にアメリカ留学するっていう電撃の号外が二次会にてばら撒かれて、「それじゃ一緒に卒業できねえじゃねえか」とか言って、ジョイトイ犬を筆頭に悔恨のあまり店で暴れる寸前でした。
まあ自分はそれ程動揺しなかったがな。だって自分卒業しても慶応の院行けば彼女に会えるし。じゃあまた来年会おうぜと、終電を見据えて早めに帰りましたよ。
留学するとは知らなかったが、まあ夏に院行くかもしれんとか言って迷ってた時期あったしな。将来については前から考えるところがあったんでしょうな。
がんばって欲しいもんです。
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